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シモキタボイス シンポジウムの記録

【Symposium6】 8月15日(水)14:00-15:30

エンディング・シンポジウム
シモキタの未来図を描く ―― 魅力ある街とは・駅前広場のあり方は?

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高橋 : 私たちも話し合いの場がずっと欲しいと思ってきたのですが。さて、そのあたりを井上さんよろしくお願いします。

会場風景

井上 : 街づくりコンサルタント、とくに住民参加の街づくりをやっています。経堂に住んでいます。世田谷区の色々な仕事につきあっています。田中さんとも長いつきあいで、今日は、ボディガードとしてやってきました。
 出席している皆さんの中で、唯一当事者ではない、第三者の立場なので、そういう意味で、話をさせていただきたい。
 
  今日は、ちょうど終戦記念日で、なかなか意味深な日にシンポジウムが開かれたと。昨年まで、この街では大変にいろいろとありました。このことは、結果的に大きな問題をはらんでしまったと私は思っています。世田谷区に対して非常に批判的な意見も持っています。都市計画とか参加の街づくりについては、貴重な一石が投じられたなと思っています。そのことを大事にして考えるべきだと思っています。やはり、都市計画とはいったい何なのか、どうやって決めるのかについて多くの問題をはらんだなと。

 参加の街づくりについて、世田谷区は先進自治体と長いこといわれてきました。ところが、今回の件では、とくに都市計画の最終的な決定の手続きには一方的に決められてしまった。やはり先ほどのいろいろな提案にもありましたように、都市計画の最近の色々な問題が、地域の皆さんの提案で示されたのだなと思います。路地文化とか路上文化とか若者文化とかアートとか、そこに無機質な線を引いてしまうという都市計画とのあり方とが非常に人々の意識と乖離してしまったというのがあった。残念ながら、それを超える計画というのは誕生しておりませんけれども、そのきっかけとなることが下北沢にはあったなと思います。
 もうひとつ、都市計画の法律には関係権利者という言葉があります。多くの街づくりの現場では、基本的に土地の権利をもっている方が大きな発言権があると位置づけられています。ところが、下北沢のような街では、大勢の方がいます。いろいろな住民の方、働いている方、活動している方、遊びに来る方、多くの方の思いによって町が成立している。そういう方の意見をどういうかたちで街づくりを決定する現場で反映できるのだろうか。全国的にも事例がありません。どうしても行政は土地や建物をもっている権利者に向きますから、そのことが今回の残念な結果につながった。

 しかし、これで終わりというわけではなく、確かに都市計画、地区計画は決まりましたけれど、今日、提案にもありましたように、この街にあったシモキタらしい内容に変えていく必要があるだろうと思っています。
 
 今までの都市計画の決定は、枠組みを決めていったものです。したがって道路については決まりましたが、どういう道路にするのか、どういう質をもった道路にするのかについてはまだまだ検討の余地があります。地区計画もきまりましたが、それは枠組みであって、ぼんぼんとビルが建ってしまっては困るわけです。その規定をこれからどうしていくのか、そういうことをこれからこの地域の人たちがみんなで考えるべきだろうと思っています。そういうチャンスはまだまだある。正直言ってシモキタには色々な人たちがいるということがあります。いろいろな立場の方たちが意見を交換して、どういう風な形であったらいいか議論するべきだろうと思います。

 今は、まず当面は、先ほどからあがっています、小田急線の地上部、跡地をどのようにしていくのか、それが緊急の課題なんですね。それについて、少し集まって相互の意見交換をし、話をしていく。それに区を引っ張り出して話し合いのテーブルを設けるということが必要かなと思っています。それを経たあとで、町全体のことを考えるということかなと思っています。
 
地域がまったく違いますけれど、小田急線の成城学園では、成城憲章というのを作りました。自治体が音頭をとり、多くの方の賛同を得て作られたものです。憲章は抽象的な言葉が多いものですが、ここではかなり細かな内容で、敷地の面積、駐車場のことなどを決めています。それは任意の憲章ではありますが、行政の窓口で伝えられ、建設を行う方にはほとんど守られています。こうしたやり方もあるわけですから、地区計画というだけでなく、さきほどからの提案のようなことでも、1階部分はなるべくお店にするとか、オープンスペースは公開するとか、憲章のようにルールをつくっていくとかようなことも考えられるかなと。


 昨日、下北沢に戦前から住んでいるという方からお電話をいただきました。ここの街の戦前からの歴史の話をされました。一番街が中心的な商店街だった。当時、都内で三大商店街というのがあって巣鴨、武蔵小山、そしてシモキタの商店街がモデル商店街だったと。さっき、駅上に劇場の方たちの練習場のようなものを設けたらどうかという話もありましたが、当時、店員道場という、お店の方が宿泊して研修したりする場所があったと教えてくれました。この町には多くの資源とか文化がありますから、そのことを元に提案をつくっていきたい。田中さんはおっしゃりませんでしたけれども、世田谷区も少し弱っているのではないかと思っています。解決を見出したい、着地点を見出したいとひそかに思っているのではないかと。

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