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筒井ともみさんのエッセー
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パッチン止めと少女の時間 筒井ともみ
パッチン止めというのは、髪を止めたり上げたりするための髪飾りのこと。
私たちが少女だったころ、自分のおこづかいをやりくりして最初に買ったアクセサリーがパッチン止めだった。今みたいに小学生の頃からいろんなアクセサリーを付けたり、少女ファッション誌から抜け出たような服を着たり、ましてや化粧やマニキュアをするなんて考えられない時代だったから、パッチン止めというささやかなアクセサリーは少女たちにとって心ときめく宝物だった。
そんなパッチン止めを買う店は二ヶ所にあった。ひとつは初等科から大学までを通っていた成城学園の、駅前商店街にあった「ハレルヤ」という店。
あの頃の商店街はずいぶん
長閑
だった。学園の正門前からつづく
銀杏
並木をぬけたあとも、街には樹々がたくさんあって、風も陽光も気持ちよく通りぬけていた。「ハレルヤ」はそんな商店街の一画にある、主に輸入物の洋品小物を扱う店だった。
店はガラス張りだったから、通りからでも商品がよく見える。おこづかいも残り少なくなった少女たちは見て見ぬふりをして通りすぎようとするのだけれど、小さな店内いっぱいにディスプレーされた色とりどりの商品の魅力に負けて、ついドアを開けてしまう。
店内は秘密の花園か夢の玉手箱みたいだった。可愛いアクセサリーやバッグ、スカーフやハンカチーフ、洋服も帽子も靴下も手袋も、外国製の化粧品やお菓子まであって、それはもう少女たちが欲しがるすべてのものだった。
でも、おこづかいには限りがある。服やバッグにまでは手が届かないけれど、アクセサリーくらいならなんとかなる。アクセサリーの中でも、少女たちが実際身に付けることのできるのがパッチン止めだった。イヤリングや指輪をはめて学校に通うわけにはいかないから。そのころ私たちはまだ中学生だった。
それでも少女たちの中にはへっちゃらでネックレスやブレスレットを買う子もいた。そういう子はかなり高額のおこづかいを貰っているのだ。羨ましいなァと思いながら、たいていの少女はパッチン止めと、せいぜいハンカチーフや外国製のバースデーカード、あとはおつりで買える棒付きキャンディくらいだった。
パッチン止めは金属製のものや布製のリボンなんかを付けたものもあったけれど、殆どは色とりどりのセルロイドの飾りが付いていた。花や動物をかたどったもの、幾何学的模様のもの、べっ甲やアンティークのイミテーションもあった。
「ハレルヤ」は今思い出してもセンスのいい店だった。最近流行のセレクトショップのはしり。あんな店が近所にあったら、大人になった今でも吸い寄せられてしまうだろう。そんな店で買物ができた私たちは生意気だけれど幸福な少女だった。
中学から高校にかけての放課後、私も友だちとつれだって「ハレルヤ」でラダラダと品定めを楽しんだものだ。でも、私はあんまり買わなかった。パッチン止めも欲しかったけれど、私にはおこづかいを他のことで使わなければならない理由があった……。
パッチン止めを買うもうひとつの場所は下北沢だった。成城学園前から小田急線に乗って、各停なら七つめ、急行なら次の駅だ。学校帰りにブラリと立ち寄るには都合がいい。
下北沢は成城とはまったく雰囲気のちがう、なかなかチャーミングな街だ。
学校帰りの私たちが向かうのは、今でもあるけれど、駅を出てすぐのところにある闇市みたいなマーケットだ。生鮮食料品を扱う店や乾物屋、衣料小物店など雑多な店が裸電球に照らされた迷路のようなマーケットで軒を連ねている。すでに店じまいをして消えた店もあるけれど、何十年かを経た今でも昔通りに営業している店もある。夜になって店を閉めた後は、トタン板や木の板で小さな店をかこったりしている。まさに発展途上のアジアの国々にあるマーケットのようだ。
最近、このマーケットや駅舎も含めた下北沢商店街の大規模な再開発が計画されていて、反対する地元の人々とぶつかり合っている。もし再開発が実行されれば、このアジアの匂いを残す街はどこにでもあるそれなりにおシャレで近代的な街へと変貌してしまうだろう。
日本中どこへ行っても、とりわけちょっと名の知れた地方都市や、もちろん東京の街の多くもそうだけれど、駅前の風景がつまらない。まず駅舎があまりステキとは言えないデザインの画一的なコンクリート作りになり、その味気なさが街も浸食して、やがて個性を失っていく。
たとえば函館。あんなに風情があって旅情をかきたててくれた駅舎、大きな丸時計を付けた塔を持つ木造駅舎が壊されて、どこにでかけても見かける特徴のないコンクリート駅舎になってしまった。函館の街自体はあまり変わらない、というより大きく変貌するだけの経済的活気も産業も持てないのだから。函館らしさを大事にした方がよほど来訪者も増えるし楽しんでもらえると思うのだけれど。
下北沢の魅力も再開発とは相容れない質のものだ。駅舎だってどことなく不定形だし、そこからのびる商店街の路地もクネクネしているし、そんな迷路のような街にありとあらゆる種類の商品を売る店、飲食店、ライブハウスや芝居小屋まである。それがごく少数のものを除けばすべてが小さいから、ゴマメの歯ぎしりみたいに大きな資本に吸収されずに乱立して競い合い、同時に協力し合い、ごった煮の街の魅力を作ってきたのに。
話はパッチン止めだ。そんなごった煮の街下北沢のシンボルのようなマーケットの奥に、その二軒の店はあった。
昼でも薄暗いようなマーケットに入ると、干物やかつお節などの乾物、手作りの漬物などの強烈な匂いが鼻孔に押し寄せてくる。入口付近には食料品店が集まっているのだ。一年中、超安売りをしている果物屋や魚屋の前はいつも黒山の人だかりで、その人ごみをくぐり抜けるとようやくふつうに前に進むことができた。貝専門の店やお茶屋の前を通り、ババちゃん下着を売る店にそって曲がると目指す店が見えてくる。
店は二軒あって、同じくらい狭くて、でも置いてあるものには各々の個性があった。本当に猫の額ぐらいしかない小さな店で、でも置かれている輸入小物の種類は膨大だった。だからめぼしい品物を見つけても自分ではなかなか取り出せない。ギリギリのスペースにうずたかく積まれているから、そっと取り出しても全体が崩れてしまう。
店はどちらも女の人がやっていて、どちらもあまり愛想がなかった。私たちみたいな中学生は持っているおこづかいも知れているから、さして大事とは思わなかったのかもしれない。その女の人に「あれ見せて」「こっちも」とお願いしてパッチン止めや小物を見せてもらい、長々と迷ったあげく買わないこともしばしばだった。
化粧品や香水もたくさんあったから、いつも甘ったるい匂いが漂っていた。「ハレルヤ」ほどセンスはよくないのだけれど、下北沢までの遠出が楽しかったしマーケットの活気も私には非日常的で刺激があった。この二軒のそばには木綿生地ばかりを売る店屋輸入品のジーンズやトレーナーを売る店、輸入駄菓子の店もあって、おシャレじゃないがエキゾチックだった。
やがてアジア的に老いのマーケットも消えてしまうだろう。そして渋谷や原宿と変わりばえのしない品物ばかりがあふれ、シモキタ文化の個性も消えていく。他者とちがうことが価値ではなくて、他者と同じであることが大事という、この国特有の無気力な価値観に
席捲
されていくのだろう。
そんな街にたむろする少女たちには、もうパッチン止めなんていうささやかなアクセサリーは見向きもされないかもしれない。でもかつての少女たちには心ときめく宝物だった。そんな大切なパッチン止めも、ひとつ失くしふたつ失くして、もう残っていない。「ハレルヤ」も閉店したし、下北沢のマーケットも風前の灯だ。
でも、パッチン止めの品定めに夢中だった少女の時間は消えることがない。ひとりひとりの心や体、思い出の領域にまで再開発が入り込むことはできないのだから。
少女だった私がなぜパッチン止めをあまり買わなかったのか。おこづかいの大半を注ぎ込む他の使い途とは何だったのか。
それはタクシー代。中学から高校を卒業するまでの間、私はおこづかいの殆どすべてを通学のためのタクシー代に使っていた。それも学校の隣り駅、祖師ケ谷大蔵に住んでいたというのに。
私の家は祖師ケ谷の駅から歩いて十五分ほどの住宅地にあった。学校までは初等科がいちばん近くて二十分くらい。中学や高校だと武蔵野の面影を残す広大なグラウンドや春になると桜花を浮かべて流れる川を超えていかなければならない。つまり歩くには少々遠いのだ。
もちろん小田急線に乗るという手段はある。それなら駅まで十五分歩き、電車で駅ひとつ、あとは級友たちと一緒に登校すればいい。でも、どうしても、それができなかった。
まず、満員電車がまるでダメだった。ラッシュアワーの電車に乗ったりすると貧血になってしまう。人の気を吸いやすいタチで、人ごみに出かけてもクラクラして気持ちが悪くなってしまう。そうやって倒れたこともしばしばだ。そうなるくらいならタクシーに乗った方がいい。
おまけに学年で一、二位を争う痩せっぽちでもあったから、歩くことも得意ではなかった。ヒョロヒョロヨロヨロしていた。食欲もない方だったから、級友たちのように買い食いにも興味がなかった。甘みなどどうでもよかった。
でも家があるのは静かな住宅地。朝の八時過ぎごろに通るタクシーは滅多にない。それでも私は道端にしゃがみ込み、いつやってくるかわからないタクシーをじっと待つ日が多かった。
だからもちろん、遅刻の常習犯だった。学年が終わるころにはいつも、「近所なのにいちばん遅刻の多いツツイさん」といって表彰(!?)されたものだ。そんなことをされてもちっとも改めない生徒であり、叱りもしない学校だった。たぶん、自力で学校へいくことは苦手でも、この子には他のことでがんばる力が少しはあると判断してくれたのだ。我が母校はそんな自由さのある愛すべき学園だった。
パッチン止めをあまり付けなくなったのは大学生になったころからだった。そしてそのころには恋人ができて、毎朝、彼がトヨタのコロナで迎えにきてくれた。だからそれ以降、おこづかいを何に使ったのか、よく覚えていない。
「着る女」より
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